●桃山時代
・1589年(天正17年)に、秀吉が五条大橋を、橋脚を石で造営。
●江戸時代
・1645年(正保2年)江戸時代に、高欄に青銅の擬宝珠が左右に16基つけられた。
五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられている。
鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反り返りが高く、「虹のような橋であった」といわれている。
●明治時代
・1878年(明治11年)、高瀬川の小橋とは分けて長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えられた時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装された。
◆景観論争
洋風のペンキで塗装され「槇村知事が洋風心酔より旧形を変じてペンキ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞でも批判が高まった。
・1894年(明治27年)、擬宝珠高欄のある現在の形に戻された。
完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦54組が行った。
出典:門脇禎二・朝尾直弘著『京の鴨川と橋 その歴史と生活』思文閣出版、2001年、p.243
●昭和時代
・1935年「昭和10年鴨川大洪水」で橋は流失。
6月28日深夜から29日にかけての「鴨川水害」では、上流の団栗橋・松原橋と共に流され、擬宝珠は正保以来のものが2個、明治年間のものが3個残っただけだった。
・1959年、国道一号線開通とともに現在の橋が架けられている
欄干には、北木石が利用された。
●豊臣秀吉が造営した石の橋脚は、明治に建て替えられ、現在、京都市内に散在している。
橋脚を探してみよう!
●洋風ペンキ塗りに
明治十一年、五条大橋も洋風ペンキ塗りとなり、五月八日祇園先斗町のねえさん達によってにぎにぎしく渡り初めを行いました。この時高瀬川と鴨川の間の中の島が高く盛り上って、五条大橋と小橋は別々になりました。
このころ三条大橋も洋風に改造しようという意見がありましたが、識者の反対にあい、かろうじて擬宝珠を残すことができたと伝えています。
槙村知事によって、擬宝珠の取り去られた五条大橋は、さんざんの不評判で泉山行幸の明治天皇(明治十年一月十日、明治十三年七月十六日、二十年一月三十日)が御所へおもどりになり「擬宝珠のあった五条橋はどうなったか」とお尋ねになったという話が伝えられています。
●擬宝珠のある五条の橋へ
擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれとなり、明治二十七年二月八日、昔の通りなつかしい擬宝珠がつけられ、百六才の高橋茂兵衛氏は三浦の大助の風粧立烏帽子の大紋をつけきれいどころが加わって雄々しく渡り初めをしたと伝えています。
緑紅叢書第四十九輯『京の三名橋 下 五条大橋』(田中緑紅、京を語る会、昭和四十五年)
●参考資料
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000114701
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000114701
http://www.kyotofukoh.jp/report13.html
http://office34.exblog.jp/13107666/
http://chusan.info/kobore1/41gojooohashi.htm