●東福門院は今の着物の創始者
光雲寺の実質的創設者である東福門院は、宮廷ファッションを十二単から小袖に替え、今日の着物文化の基礎を創った最大の功労者である。
宮中でのカジュアルウェアー (普段着) を小袖着物ファッションに変貌させる。
宮中に小袖を着用する習慣を持ち込み、その後さらに完成度を高めていく着物文化の最大の貢献者。
嫁入りしてから亡くなるまで多くの衣装を手がけ、衣装代総額は50億円にも達するともいわれている。
東福門院は、これらの衣装を雁金屋(浅井長政の家来筋であった二代目道柏が、長政3人娘である淀君、京極高次夫人、徳川秀忠将軍夫人お江の方の着物制作を一手に引き受けていた)に発注し、デザインや意匠、加工方法等を事細かに指示したと伝わる。
雁金屋は東福門院和子の注文を実現するために意匠や染織技術の工夫を重ね、結果きもの文化の発展に大きく貢献した。
東福門院和子のデザインは「寛文小袖」といわれる模様形式を生みだし、1つの時代を確立した。
何しろその注文の数が中途半端ではなく、宮中に輿入れした3年後の元和9年(1623年)には小袖45点、染物14反、あわせて銀7貫866匆(もんめ)、現在の価格で800万円くらいの衣装代を雁金屋に支払っている。
小袖を多く発注し、宮廷ファッションの十二単を小袖に替えてしまったのは東福門院和子といわれるほど、その影響力は大きいものだった。
亡くなった延宝6年(1678年)、すでに72歳でしたが、なんと半年間に346点を注文し、いまの金額で1億6000万円相当
雁金屋で生まれた尾形光琳と乾山兄弟は、江戸時代の琳派の中心的存在となる。