住宅地の中に突然現れた神社に、藤森鏡子は迷わず入っていった。前園は足を止め、藤森鏡子から見えないように、鳥居の陰にそっと身を隠した。広くはない神社の敷地にはたくさんの参拝客がいたが、なぜかその中に男の姿はなかった。男子禁制というわけではないだろうが、さすがに場違いで目立ってしまう。入口の由緒書きには、女神を祀る市比賣(いちひめ)神社と書いてある。女人守護の神様らしい。道理で女ばかりいるわけだ。
見失わないよう、ときどき神社を覗きこむ。鏡子は熱心にお参りしているようだった。しばらく待っていると、鳥居から現れて、前園には気づかず、背を向けた。移動し始めたその後ろを、前園は再びつけていく。
本当は、こんなストーカーみたいなことをしなくても、直接家を訪ねて事情を話せばよかったのだ。が、家が見えたと思ったら、彼女が出てきた。車椅子とそれを押す若い女の組み合わせ。探している藤森鏡子に間違いなかった。すぐに声をかけようかとも思ったが、住宅地では、会話が筒抜けになる。成り行き上、仕方なく、あとをつけてきてしまった。
これでいいんだ、と前園は自分に言い聞かせ、女のあとをつけている自分を弁護する。藤森鏡子という女性が元気かどうか見てきてくれ、というのが祖父の依頼だった。突然訪問して驚かせ、かしこまった顔を見せられるより、こんなふうに散歩の様子を眺めたほうが、元気かどうか、よく分かる。
それに、散歩に出かける鏡子を見つけた時点で、前園はもう半分以上仕事を終えた気分だった。祖父から聞いていた住所は十六年前のもので、もし藤森家が引っ越していたら、その後を追跡するのは一大事だっただろう。だが、引っ越していなかった。自腹で新幹線代を払い、わざわざ京都までやってきたのが無駄足にならなくて、ほっとした。
車椅子にすっぽりと収まった小柄な体は美しい着物に包まれていた。目の冴えるような緋色の着物は、かなり目立っていたが、観光客らしき外国人が足を止めて振り返るくらいで、誰も気に留めない。
大きな道路に出た。前園は事前に頭に入れておいた記憶の中の地図を広げ、この先には鴨川がある、と、見当をつける。鴨川の川原で散歩を楽しむのだろうか。だとしたら、そこで声をかけよう。周りを気にせず、ゆっくり話をすることもできるだろう。
信号が青になる。彼女が横断歩道を渡り始める。車椅子を押す華奢な後ろ姿を眺めながら、どうやって話しかけようかと前園が考えたそのとき、けたたましいブレーキの音がして、視界がトラックの車体に遮られた。ああ、と誰かが叫ぶ声がした。見上げると、空に身体が舞っていた。スローモーションのように舞い上がった緋色は、天高い場所でひるがえり、地面に勢いよくたたきつけられた。
道路の真ん中には、トラックの衝撃を受けてゆがんだ車椅子が転がっている。そして、その脇には車椅子を押していた若い女が、呆然としてへたりこんでいた。
前園は横断歩道に駆け寄った。
「けがはないですか」
その言葉に、彼女は放心したまま、うなずいた。
「藤森鏡子さんですね。私は前園と言います」
と、前園は名乗った。鏡子は、力のこもった目で、もう一度うなずいた。そして、ゆっくりと首を横に向ける。そこには、手足があらぬ方向に曲げられ、道路に伏せったまま、ぴくりとも動かない身体があった。
真っ青な顔でトラックから降りてきた運転手は、前園に向かって叫んだ。
「おい、あんた、お願いだ。救急車を呼んでくれ」
前園は首を振った。
「その必要はありません」
運転手は目を見開いて、絶望の表情を見せた。
「まさか、もう……」
「そうじゃない。よく見てください。あれは身代わりなんです。この子のね」
鏡子が立ち上がって、着物に包まれた身体をそっと抱き起した。首がぽろりと取れた。取れた首の切断面から、太い木の棒が覗いていた。
前園と名乗った瞬間に、藤森鏡子はすべてを悟ったようだった。
「おかげで助かりました」
と、言った。青ざめていた。でも、涙は流さなかった。泣くのを我慢しているような顔だった。
流しびなという風習がある。あれは自分の災厄を人形にうつして水に流す行事だ。その人形が、飾るための雛人形に発展した。前園は人形を作る人形師で、父も祖父も人形師だ。前園家では、細かい分業で成り立っている人形つくりの工程を、すべてひとりでやってしまう。大量生産はできないが、どんな注文にも答えることが出来る。
二十年前、祖父のもとに京都に住む大地主がやってきて、娘のために雛人形を作らせた。ほかにはない愛らしい出来栄えに、客は心から満足したようだった。が、その雛人形は娘の一歳の誕生日に、突然バラバラに壊れてしまう。不良品をつかまされたと怒り狂った直後、娘が交通事故に巻き込まれ、あやういところで命拾いをしたという知らせを受けた。客は、恐ろしくなり、祖父のもとへ訪ねてきた。祖父はバラバラになった人形を見るなり、険しい顔をして口を引き結んだ。
「この人形ではお嬢さんの災厄は受け止めきれなかったようです。次は助からないでしょう」
それから、祖父は渾身の力を込めて、特別に等身大の人形を作り上げた。
人形はキョウコと名付けられ、娘と一緒に時を過ごすようになった。
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寺の境内には、大小さまざまな人形がつみあげられていた。その中でキョウコの姿は一際目立っていた。前園が応急処置をしたおかげで、首と手足は元の形に収まり、美しさを取り戻している。新しい着物を着て、ほかの人形たちにそっともたれかかっているキョウコの顔は、心持ち天を向いていた。ぼんやりと微笑んでいるように見えた。
人形供養の読経が続く中、鏡子は声を殺して泣き続けていた。
「ずっと一緒だったんです。まるで姉のような友達のような、かけがえのない存在でした。だから、この日が来て欲しくなくて、毎日お参りしてたんです」
「人形は人形です。人形には痛みも感情もありません」
前園は静かに言った。
「分かっています。でも、こうしてわたしの代わりにキョウコが燃やされるなんて」
あとは言葉にならなかった。鏡子は顔を覆って嗚咽する。
「人と暮らし、人が思いをうつすことで、人形は命を与えられる」
前園はキョウコを見つめたまま、ゆっくりと語った。人形の山に火がつけられる。人形たちが音をたてて燃え上がる。
「命を与えられれば終わりがある。これからは、キョウコの分まで、ふたりぶん生きてください。これが祖父からの伝言です」
鏡子は燃え上がる炎を見つめたまま、涙でぬれた目を見開いてうなずいた。天が焦がされる。前園は目をつむり、役目を終えた人形たちに向かって手を合わせた。