「先輩、今どこ? 」カラメルが蕩けるような甘ったるい声が、スマホに絡みつく。
「原宿の置屋で芸者あげて、酒池肉林じゃ」
「どうせ漫画喫茶かなんなでしょ。渋谷のワン公の尻尾んとこで待ってるぜぃ。身柄引き取りに出頭せよ」「かなりご酩酊のようだな」「早く来ないと、悪い親爺の好餌になっちまうぞ・・・」携帯は勝手に切れた。
時計を見ると、あと十分で明日。駅前からタクシーを飛ばす。黒のダッフルコートにバーバリーチェックを纏った、長身で髪の毛の長い娘が、ハチ公の尻尾にもたれかかるように佇んでいた。風花が舞いだした。「お嬢ちゃん、おじさんと遊ぼうぜ」と声をかけると「兄貴、遅いぜ」と恵が孝介に凭れかかった。「こんなふしだらな妹分なんぞ持った覚えはねえが、とにかく護送する」
タクシーに乗せ、広尾にある恵のマンションに送る。車中に入るやいなや、恵は孝介の膝の上にうつ伏せに倒れこんだ。マンションの前で、揺り起こしたが起きないので、仕方なく部屋に抱え込んだ。エアコンをつけ、コートとマフラーを取り、ピンクの豚が刺繍されたカバーのかかったベッドに横たえる。
(さて帰るか)と立ち上がると「こら同志、おいらを見捨てるのか。バレンタインの恩を忘れたか」「なんだ、起きてたのか」「水を所望じゃ。話がある」仕方なく、コップに冷蔵庫のミネラルを注ぎ「ほれっ」と渡す。「かたじけない」恵はベッドの上で横すわりになり、一気に飲み干し「うぃー。甘露、甘露」と歓声をあげ立ち上がり、ヨロヨロしながら食卓についた。そしてテーブルに頬杖をつくと「先輩、みどもは失恋した」と涙目で訴えた。「そいつはメデタイ。たまには袖にされるのも良き人生勉強じゃ」「先輩には内緒だったけど、私・・・プロポーズされたの」「へえ、物好きが多きこの世は平和じゃのー」「気になんないの? 」「なるわけねえじゃん。こんな夜更けに、勉学に励む拙者にアッシーさせる罰あたりは、お主だけだぜ。ところで、その物好きはたそ? 」「フ、フ、フ、やっぱし気になるのね。白鳥善雄さんというエリート商社マン。身長185、体重65キロの筋肉マン。短足、腹ボテの誰かさんとは大違い。イヴに出会って、初詣で告られ、本命チョコを献上、ホワイトデーの前日、この部屋で、お返事の約束だったわ。彼が今、先輩のいる席に座って、お茶したの」「そして、翌日、給料三ヶ月の指輪かよ・・・」「いいえ。もう少し考えたいって言ったの」「はぁ? 何ゆえ」「やんごとなき姫様は安売りしないものよ」「へえ、流石はミス・キャンパスだ」正面のサイドボードの上に飾られた、和紙で作られ、キリッとした顔だちで両手を広げた内裏雛の殿の眼がキラリと光った。「ところで、あの人形は? 」「ああ、あれは上京するときお爺ちゃんが作ってくれた魔除けよ」「ふーん。それでホワイト・ディは? 」「それが、翌日から何の連絡もなくなっちゃつたの」「今日で二週間か。お前さんからは電話したの? 」「勿論。でも携帯替えたみたい。番号が使われていないって・・・」「それでキープ君に袖にされたって訳か」「だって合コンで知合って、まだ三ヶ月だし、候補者の一人だったのに・・・」「どこの商社だい? 」「先輩の兄上と同じとこよ」「なーんだ、それでおいらに探りいれろってか。高いぞー」「よろしく。恩に着ます」恵は手を合わせた。
*
春の風駆けて。四月のとある晴天の朝。
「先輩、お待たせしました。今日はどこへ」
紺色のパーカーと白のキュロット姿の恵は、切れ長の眼に微笑みを浮かべ、声を弾ませた。「さあ、乗った乗った。春の野に出て若菜摘むツアーだ」「ピクニック? 」「まあそんなとこだ」一時間ほどのドライブ、車中で孝介は、雛人形の歴史の薀蓄をたれた。
「先輩、驚きました。まさか経歴詐称とは思わなかった」「押し倒されなくて良かったな」「くわばら、くわばら」「小噺をひとつ。ある女性が羽を痛めた白い鳥を助けました。治癒して放ったのち、恩返しに来ないので、次に鳥と遭ったとき『鶴、なんで恩返しに来ないの? 』と聞くと『俺は鷺だ』と答えたとさ」「白鳥さんが、白鷺だったなんて」川の土手に車を止め、リュックとバスケットを持って、水辺に。「うあー、ピンクの可愛い花が満開。何の花かしら」「桃だよ」孝介は水辺にビニールシートを敷き、その上にリュックから出した携帯デスクとチェアを誂えた。「さあ、姫お掛けあそばせ。本日は旧暦の三月三日。流し雛で厄払いだ」
恵が座ると、孝介は紺ブレのポケットから人の形をした紙人形を出し、恵の全身を軽く人形で撫で「さあ、これに息を吹きかけて」恵は素直に従う。「さあ、お祓い終了。川に流そう」「お爺ちゃんが作ってくれたお雛様が、私を救ってくれたなんて・・・」
春のせせらぎを流れていくヒトガタを見つめながら恵が呟いた。
「姫の横着が救ったかもな。古来、お雛様は立春から二月中旬まで飾るもの。ホワイト・デイ前日まで飾っておくなんて・・・片付けのできない娘は嫁にいけないってのが定番だぜ」「お気の毒様。あの人形はお爺ちゃんの形見だもの。一年中、片付けないの」「なるほどグランパの陰謀か」「陰謀? 」「そうさ。可愛い孫を嫁にやりたくないってね。それにしても、あのお雛様の眼光は鋭かった。昔から雛人形は厄災から身を守る役回りがある。立雛がストップをかけるように両手を広げ、キッと睨みつけていたもんな。白鷺君も魂胆見透かされたかとビビったに違いないぜ。申し出を断り、しかも、お雛様が故意に片付けてなければ、当分結婚の意志なしって事は伝わるよな」「あら、そうだったんだ。ところで白鷺さんはともかく、先輩がビビったのは、どうして? あっ! 私に邪心を」
「馬鹿言うな。俺はな、桃の花は好きだけどピンクの下着は趣味に合わん」「あっ! 見たな!! 」「見たんじゃなくて見せたんだろう。泥酔して俺をアッシーにしやがって、おまけに大股開き。あきれたもんだ」「馬鹿」恵は孝介の頬っぺを力いっぱいつねる。「痛てー。ますます嫁にいけねーぞ」「スケベ親爺め。高いぞー。責任取れ」「春の七草入り特製五目寿司と、菜の花と蛤の汁、大吟醸の桃花酒でご勘弁を」孝介は、大急ぎでバスケットからタッパーと、ポットと、酒瓶と食器、箸を出し、赤ちゃんみたいな笑顔を投げかけた。
春うらら。二人の宴は、夕映えが川面を包むまで続いた。
〈了〉