海へと続く道は、わずかに傾斜している。いつもなら気にならないほどなだらかな下りではあるのだけれど、慣れないヒールを履いているいまは、その少しが何倍も大きなものに感じられる。
そんなわたしの心の内を察し、気遣ってのことか、右隣に並んで立つ彼が肩を抱き寄せ歩いてくれているのがうれしい。頭をもたせかけながら、彼の体から伝わってくる音に耳をすませ、ぬくもりに浸る。
やがて足元の頼りなさも、まるでふたりのためのちょっとした余興であるかのように思われてきて、わたしはひそかに、その想像を楽しんだ。
いっそ目をつむって歩こうか。この人になら、わたしのすべてをあずけてしまえる――そう心の中で言葉にして、口許がゆるむ。
夕暮れを前にして時折吹く風は、涼やかで心地いい。
この町へやってきたのは、彼の両親に結婚のあいさつをするためだった。
町は海と小さな山とのあいだに挟まれるようにしてあって、全体に海側のほうへと傾いており、海岸まで少々距離のある彼の実家からでも、海――そして遠く真一文字に結ばれた水平線を、家々のあいだから認めることができた。
「どうだった、うちの親。やっていけそう?」
そう尋ねられて、彼の声のやわらかさは、この町に漂う空気のそれに似ているなと思う。
「うん、おとうさんはやさしくて、おかあさんはおもしろい人だった。やっぱり、親子なんだね」
そうかなあ、と彼は笑うが、そのはにかむような笑い方などはまさに、おとうさん譲りだ。
「ふたりもずいぶんと気に入ってたみたいだよ。言ってたろ? 本当の親だと思って接してくれって」
思い出して泣きそうになり、わたしは黙ってうなずく。
息子の〝妻〟としてだけではなく、実の〝娘〟としてもまた家族に受け入れてもらえる――幼い頃に両親を亡くし、祖父母のもとで〝孫〟として育てられてきたわたしにとって、それがいったいどれほど心にあたたかく感じられたかわからない。
たとえ、ふたりからしてみれば何気のないひと言だったのだとしても、そのとき味わった、まるで二度目の誕生を迎えたかのような感動は、少しも損なわれたりはしないだろう。
何してあげたらいいかわからなかったから、と言っておかあさんが見せてくれた五段飾りの雛人形は、その誕生を祝福するためのもののようにも思われて、敷かれた緋毛氈(ひもうせん)のあでやかさに、わたしは目を細めた。
――桃の節句は過ぎちゃってるけどね、このあたりじゃ旧暦の節句まで飾るのが普通なのよ。旧暦のほうが本番なくらい。うちには女の子がいなくて長いあいだ仕舞ったままにしてあったから、女雛さんがねずみのお嫁にされてないか心配だったわ。
おかあさんの言うとおり、三月三日は三週間も前に過ぎていて、旧暦の節句と聞いてもいまひとつピンとはこなかったのだけれど、わざわざわたしのためを思い、お雛様を飾ってくれようとしたふたりの気持ちが、何よりうれしかった。
そのよろこびようは想像以上のものであったらしく、おとうさんとおかあさんは、互いに顔を見合わせては笑みを交わしていた。
――わたしも長いあいだ、雛人形なんて飾ってもらえたことなかったですから。
はしゃぎすぎたのを弁解するようにして言うと、一瞬、その場の空気が強ばるのを感じ、しまった、と後悔した。
あの日わが家を襲った火の手は、わたしから両親を奪い、両親からもらった雛人形をもまたかすめ取っていったのだった。そのことをみな、いまの一瞬のうちに悟ったのだろう。
――もしよかったら、この雛人形、持って帰りなさいな。この地方にはね、母から娘へって、代々人形を受け継いでいく慣わしがあるの。
一切の淀みを感じさせず、母から娘へ、とおかあさんは言葉してくれた。
彼とおとうさんからの勧めもあり、ありがたく、その好意を受けることにした。
ゆるい坂はもう終わり、静かな波音を立てるあちらとこちらとをさえぎるものは、いまや厚く低いコンクリートの堤防だけになっていた。潮の香りが新鮮で、この海の見える景色があるだけでも、ここは本当に恵まれたいい町だと思う。
しかしそんな景色を前に、彼は少し早足にさえなって、突き当たりを右に曲がると、今度は海沿いの道を進みだした。
――もうひとつ、見せたいものができた。
そう言ってわたしを誘った彼が見せたかったものは、この海ではなかったのだろうか。
浜辺へと降りる階段も通り過ぎ、さらに歩き続ける。
「どこに行くの?」
秘密、とだけ答えて彼は、肩に置いていた手をわたしの頭の上に置き直し、わたしが顔を上げたのをそっと押し戻すようにして、そのままさらに強く抱き寄せた。
わたしの目から、何かを隠そうとしているのだと直感した。しかし――
≪いっそ目をつむって歩こうか。この人になら、わたしのすべてをあずけてしまえる≫
さっき心の中で言ったことをいま思い出して、あえてそれ以上、彼に問うことはしなかった。
春を迎え、道の端々に赤や黄色の小花が咲き、潮風に吹かれて揺れている。ゆっくりとしたリズムで時を刻む波音に混じって、時折、海鳥の鳴く声が聞こえてきた。町にあるどの家も決まって赤い屋根瓦を葺いていて、そのあたたかな色味が何よりも確かに、この町とそこに暮らす人々のことを言い表しているように思われた。
「着いたよ」
何かをはかるようにして歩みをゆるめ、立ち止まり、彼は言った。そして海側に背を向けると、『ほら、見てみなよ』というように目配せをする。
促されて、視線で示されたほうへ向けたわたしの目に飛び込んできたのは、一面をあざやかに彩られたお椀型の小山だった。彼の家からでは、近い側にある別の山の陰になっていて、よく見えなかったのだ。
「きれいな桃色……」
わたしが感嘆を漏らしたのに、彼は笑って首を振る。
「それだけじゃないよ。手前にあるふたつの山を、一緒に見てみて」
言われたとおり見直してみて、わたしは、彼がわたしに本当に見せたかったものの正体を理解した。
それは――一対のお内裏様だった。
ふたつ並んだ小さな山の、左手にある一面桃色に染まったほうを女雛に、右手にある一面濃い緑色をしたほうを男雛に、それぞれ見立てて眺めるのである。
桃の山と青の山、ゆるい傾斜の上に立ち並ぶ家々の赤い屋根――途端にひらけた視界の中、その全景が、あの雛飾りに重なって見えた。
「『おびなさん』と『めびなさん』、ふたつそろえて『おひなさん』。ここの人はみんな、そう呼んでる」
『男雛山』と『女雛山』――さっきおかあさんたちが、女雛様のことを「女雛さん」と呼んでいたのを思い出し、わたしはひとり合点した。
「昔、女雛山が火事になって真っ黒焦げになったあと、どこかのお殿様が気を利かせて、一面に桃の木を植えさせたんだって。以来、毎年旧暦の桃の節句あたりになると、あんなふうに桃色一色になるんだ。男雛山のほうは常緑樹ばかりでね。夕暮れ前に着いてよかった。夕日に染まると、桃花(とうか)の化粧が溶けちゃうから……」
あたりはそろそろ暗みを増し、空の青さは少しくすみはじめていた。しかしその中にあって、小さな山の大きな『おひなさん』は、あざやかに力強く、際立ってわたしの目に映って見えた。この町も、わたしのことを迎え入れ、祝福してくれているのだと思った。
きっとまた来年も再来年も、子どもができてからも彼と一緒に、この景色のある町へと、わたしは帰ってくるだろう。
<了>