東京で暮らしている娘の久美が、婚約者を連れて帰ると電話をしてきたのは、一週間前のことだった。
「次の土日に篤司(あつし)くんと一緒に帰ろうと思うんやけど、ちょうど、おひなさんやろ? お母さん、ひなまつりのごちそう、作ってくれへん? 篤司くんに、京都のおひなさん、体験させてあげたいねん」
「かまへんよ」
初子は気軽に請け負った。料理の腕には自信があったし、お客さん相手に、用意するものをいろいろ悩まなくて済むのは助かった。
「よかった。口で説明しても、なかなか伝わらへんもん」
それから久美は、ばらずしとしじみ汁とささがれと巻きずしとひな板と……と、おひなさまのごちそうを唄うように唱え、そうそう、ひちぎりも忘れんとってな、とつけ加えた。
朝に買ってきた、ひちぎりの包みを解く。ひちぎりは、ひなまつりに食べる生菓子だ。しゃもじのような形の餅の中心にあんこが載っている。
ひな板はそのままの形で見せてあげた方がめずらしいだろうから、刃を入れずにテーブルに並べる。小さくて可愛らしいひなまつり用のかまぼこだ。普通の半分サイズのかまぼこの表面に、色付けしたすり身で梅や桃の絵が描いてある。ぽこぽこと模様が盛り上がって、デコレーションケーキのようになっていて、切ると模様が途切れてしまう。
戸棚の奥から、ひなまつり用のお椀セットを取り出す。鮮やかな漆の朱色の椀だ。義祖母のときから使っている年代ものだったが、ひなまつりにしか登場しないせいで、まだまだ新品のようにつやつやしている。久美が小さかったころは、よく家に友達を呼んで、ひなまつりのお祝いをしたものだったが、高校を卒業した久美が東京に出ていって、夫婦ふたりだけの暮らしになってからは、この椀はしまわれたままだった。今日は十年ぶりの登場だ。
すべての膳を並べ、手持ち無沙汰になった初子は時計を見上げた。迎えに行くと言って、達吉が家を出てから、ずいぶん時間が経つ。新幹線の到着時間もとっくに過ぎている。 そろそろ帰ってきてもいい頃である。
そのとき、玄関の引き戸ががらがらと音を立てた。久美だった。お帰りと言いかけた初子は、眉をひそめた。様子がおかしい。全身から殺気をみなぎらせて玄関に座り込み、ブーツを脱いでいる。そのあとから、篤司が現れた。相変わらずぽってりと太っていて、お世辞にもかっこいいとは言えないが、気のいい青年である。初子を見て会釈をするが、間に無言の久美がいるので、あいさつを交わし合えるような雰囲気ではない。
「どうしたん、久美ちゃん。そないに怒って。篤司くん来てはんのに」
無言になるのは久美が腹を立てているときの癖だ。初子の声に顔を上げると、久美は目を見開いて、
「お父ちゃんに縁切りの神様のとこ連れていかれてん。信じられへん。最低や。冗談でもひどいわ」
と、訴えた。
「ちゃうねん、それは久美の誤解や」
へらへら笑って現れた達吉を、久美は鬼のような形相でにらみつけた。
またか、と思って、初子はため息をついた。昔から、たびたび繰り返された光景だった。達吉は、久美といると、ついついはしゃいで調子に乗りすぎ、久美の逆鱗に触れるどんくさいことをしてしまうのだ。
「今日がひなまつりっちゅうことで思い出したことがあったから、連れてっただけやないか。俺の思い出の場所や。別にふたりの縁を切ろうというわけじゃない」
「お父ちゃんの思い出とひなまつりと、どんな関係があんの」
「説明しようと思ったら、お前が走って出ていったんやないか」
初子は大きなため息をついて、久美に向き合った。
「縁切りの神様って、法雲寺の菊野大明神やろ?」
「うん」
「そこはな、お父ちゃんを生まれ変わらせてくれた神さんや」
「どゆこと?」
久美がぽかんとして初子を見た。
「そな大げさな」
達吉の抗議を無視して、初子は続けた。
「もう二十年以上前やわ。お父ちゃんが、毎晩毎晩、散歩行ってくるなんてあやしい言い訳してそそくさと家を出ていくから、気になって後をつけたんや。そしたら、菊野さんのとこ入ってって、大きな声で、どうか競馬をやめられますようにってお願いしてたんえ。近所の人が通ったらどないしよ、と思って、恥ずかしくってたまらんかったわ」
「なるほど。競馬との縁を切ろうとしてたんですね」
篤司がよく通る美しいバリトンボイスで言った。
「そうや。久美のために改心した。俺はそれが言いたかったんや」
達吉がようやく味方を得たとばかりに、勢いよく言った。
「なんやねん、それ」
久美はあきれて、ため息をついた。それから、初子を見ると、改めて
「ただいま」
と、言った。
■□■
ひなまつりのごちそうを見て、篤司は、おおおーと声をあげた。それから、味や細工のひとつひとつに感心しながら、愛でるように食べていく。あまりにもほめられるので、初子は、照れて、にこにこ笑ってうなずくことしかできない。達吉は、料理に対抗心を燃やしているのか、おすすめの地酒を解説付きで篤司に勧めている。
「ところで、法雲寺の話は、ひなまつりとどういう関係があったんですか?」
篤司が言うと、
「そうや。それをまだ聞いてなかったわ」
と、久美が、笑いながら達吉の腕をこづいた。
「あれや、あれ」
と、達吉が指さした先には、飾り棚があり、そこには小さなおもちゃのひな人形が飾ってあった。
「昔、久美が小さかった頃、ひな人形のひとつもないとあかんやろと思って、一緒にデパートに行ったんや。そしたら、ひな人形の高いのなんの。店員が寄ってきてあれこれ説明されて、わあ、どないしよって思ってたら、久美が、こっちのじゃなくて、あっちのがいいって、隣の文房具コーナーに俺を連れて行ってな、あのちっちゃいおひなさんを選んだんや。子供のくせに、親に気を使って、なんて優しい子やと思って涙が出た。それで俺は心を入れ替えたんや。どや、美しい話やろ」
「あほらし。五歳児が家の経済事情なんか考えるかいな」
久美が言った。
「ほんまにあの人形がよかってんもん」
初子は、薄汚れてしまった小さなひな人形を眺めた。あの人形は桃の節句のときだけじゃなく、一年中、あの場所に飾られている。久美が、おひなさん仕舞いたくないと駄々をこねたからだ。仕舞わんと、お嫁に行けなくなると初子がいくら言いきかせても、お嫁に行かなくていい、と、五歳の久美は強情に言い張った。
いったん気に入ると、とことんまで夢中になる子なのだ。篤司と笑いあっている久美を、初子は目を細めて眺めた。
さみしなるな、とささやいて、初子は達吉のグラスに酒を注いだ。達吉は、無言のまま酒瓶を取りあげ、初子の湯飲みを酒で満たした。ふたりは、視線を合わせて微笑むと、初めて誓いをたてたときのように、同時にゆっくりと杯を傾けた。〈了〉