事件から七日がすぎても、細川与一郎忠興(ただおき)の気持ちは晴れなかった。
父藤孝(ふじたか)が非情だとは知っている。他に方法がなかったかもしれない。だがあそこまで酷(ひど)いことをする必要はなかったはずだ。そんなわだかまりが澱(おり)のように心の底によどんでいた。
天正十年(一五八二)九月八日、藤孝は茶会をするといって弓木城(ゆみのきじょう)の一色義定(いっしきよしさだ)を宮津城(みやづじょう)へ招き、主従百人ちかくを皆殺しにした。酒肴をふるまって油断させた上でのだまし討ちだった。
一色家は室町幕府の三管家(さんかんけ)に任じられた名家で、丹後地方に根強い勢力を持っている。信長から丹後平定を命じられた藤孝は、一色義定と長年にわたって戦ってきたが、昨年五月に娘の伊也(いや)を義定に嫁がせることで和を結んだ。
それ以後、丹後南部を細川家が、北部を一色家が領することになったが、本能寺の変が起こったために両者の関係が微妙になった。そこで藤孝は先手を打ち、義定を亡ぼして後顧の憂いを断ったのである。
与一郎は事前に何の相談も受けていない。計略がもれることを恐れた藤孝が独断でやったことで、酒席でいきなり殺戮(さつりく)が始まった時には衝撃のあまり身動きができなかった。
その日以来、宮津城を出て父と顔を合わせるのを避けていた。
「殿、一大事でござる」
近習の長岡小一郎が急を告げた。
だまし討ちにされた一色家の残党が、復讐のために味土野に身を隠している玉子(たまこ)を狙っている。しかも玉子の警護役につけた一色宗右衛門が、この計略に加わっているという。
「まさか、そんなはずがあるか」
与一郎は打ち消したが、宗右衛門は一色家の出身である。だまし討ちに与一郎も加わったと考え、一門の者たちと行動をともにする恐れは充分にあった。
「馬を引け。供は無用」
大勢で行けば残党たちを刺激する。味土野は一色家の勢力圏の真っただ中なので、ひそかに行って玉子を安全なところに移すしか助け出す方法がなかった。
(玉子、無事でいてくれ。宗右衛門、わしを信じろ)
与一郎は心の中で祈りながら天橋立(あまのはしだて)を突っ切り、日置(ひおき)から山間の道に馬を乗り入れた。
世屋川(せやがわ)ぞいをさかのぼり、銚子(ちょうし)の滝の側にさしかかると、前方からかすかに剣戟(けんげき)の音が聞こえた。滝の水音にかけ消されそうだが、刃を打ち合わせる音にちがいない。
(もしや、敵が)
ここまで迫ったかと先を急ぐと、杉林の中で宗右衛門が斬り合っていた。四人の攻撃を、杉の木を盾にして懸命に防いでいる。すでに三人は討ち果たしていたが、自分も肩口に深手を負っていた。
「宗右衛門、わしだ」
与一郎は馬から飛び下り、敵の背後に回り込んだ。
細川家の若殿だと知った残党たちは、仇を討とうと目の色を変えて向かってきた。
「手足(てだ)れでござる。ご油断めさるな」
宗右衛門が一人に追いすがり、背中から斬った。
残る三人は与一郎を取り囲み、物も言わずに斬りかかった。怒りと怨みが、彼らの太刀さばきを鋭くしている。戦場できたえ上げた熟練の一撃だが、与一郎の動きは三人より数段速かった。
抜く手も見せずに正面の相手の胴を両断し、ふり向きざまに右から迫る敵を切り捨て、最後の一人の切っ先を払って逆袈裟(ぎゃくげさ)に斬り上げた。
「お玉は、玉子は無事か」
「ご安心下され。この者たちが誘いをかけてきたゆえ、身方するふりをして討ち果たしたのでござる。」
一色家の出だが、今は若殿に仕える身だ。甘く見てもらっては困ると、宗右衛門が胸を張った。
肩口の手当てをしてから、宗右衛門を馬に乗せて味土野に向かった。まわりを山に囲まれた集落のはずれに、玉子と従者たちが隠れ住む屋敷があった。藁(わら)屋根からは、夕餉(ゆうげ)の支度をする煙がのどかに立ちのぼっていた。
「あら、どうかなされたのですか」
玄関口で出迎えた玉子は、たすきをかけて栗を入れたざるを持っていた。栗ご飯を炊こうとしていたのである。山の清らかな空気のせいか、すっかり元気になったようだった。
「何でもない。わしにもそれを馳走してくれ」
与一郎は宗右衛門に姿を隠せと合図を送った。手傷を負ったところを見たら、玉子が余計な心配をすると思ったのだった。
〈了〉