本能寺の変の八日後、長岡与一郎忠興(ただおき)は父藤孝(ふじたか)の部屋に呼ばれた。
「これを見よ」
藤孝が険しい顔で差し出したのは、明智光秀からの書状だった。
摂津一国を与えるつもりでいるので、すぐに身方に参じてほしい。我らが今度の企てを起こしたのは、与一郎らを取り立てようと思ってのことだ。そう記されていた。
「わしは参ぜぬ。そちは日向守(ひゅうがのかみ)どのの娘婿ゆえ、行きたければ行くが良い」
「私も参りません。決意のほどは先日お示しいたしました」
信長が討たれたという知らせを受けると、藤孝は髻(もとどり)を切り落として哀悼の意を示した。与一郎もこれにならい、父と行動を共にすることを誓ったのだった。
「さようか。ならばわしは隠居して家督をそちにゆずる。そのかわり」
藤孝はいったん言葉を切り、お玉を誅殺せよと命じた。
光秀の娘を妻にしたままでは、謀反に加担しているように見られる。辛かろうが思い切らねば、将来に禍根を残すというのである。
「承(うけたまわ)りました。されど、数日お待ちくだされ」
まだ変の全容も諸大名がどう動くかも分かっていない。それを見極めてから事を決めたい。与一郎はそう返答して引き下がった。
お玉を娶(めと)って四年になる。一男一女にも恵まれ、仲むつまじい日々を送ってきた。それなのに光秀が謀反したからといってお玉を討つのは、あまりにも忍びない。
それが与一郎の本心である。だから決断を先に伸ばして打開をはかろうとしたが、六月十三日になって状況は大きく動いた。山崎の戦いで光秀は秀吉勢に大敗し、落ちのびる途中に土民に討ち取られたのである。
与一郎は観念した。これ以上、父のもとにいては、お玉を庇い抜くことはできない。家も国も捨て、一介の牢人となって妻子とともに生きよう。
ある夜、その決意を固めて奥御殿に行くと、お玉が白小袖のまま巻紙に筆を走らせていた。弱い明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる姿から、鬼気迫る覚悟が伝わってきた。
(もしや……)
自決するつもりではないかと思ったが、与一郎は戸の陰から動こうとしなかった。
そうしてくれるなら、何もかも丸く納まる。家を捨てて父母を悲しませることも、二人の子を路頭に迷わせることもない。そんな考えが、脳裏をかすめたのだった。
書き置きを終えると、お玉は正座をしたまま着物の帯で太股を縛った。自決した時、裾を乱さないためのたしなみである。
側には四歳になるお長(ちょう)と三歳になる熊王丸がやすらかな寝息をたてていた。
与一郎は悪夢にうなされる思いで漠然と様子をながめていたが、お玉が鞘を払い、脇差がきらりと光るのを見ると、部屋に駆け入ってお玉の腕を取り押さえた。
お玉は無言のまま首を振り、死なせてくれと身をもがいた。
「死んではならぬ。この子らを見捨てるつもりか」
与一郎は背後から抱きしめたままささやいた。
「でも、このままではあなたさまのお立場が」
「家を捨てて牢人になる。親子四人の食い扶持くらい、どこに行っても稼いでみせる」
「それではあまりに」
申し訳ないと言いながら、お玉はさめざめと泣きだした。
夜が更けるまで話し合い、明日の朝、城を抜け出すことにした。薄闇の中で支度をしていると、音もなくふすまが開いた。灯明皿(とうみょうざら)をささげた侍女を従えて、母親の麝香(じゃこう)が立っていた。
「城を出るなら、これを持って行きなさい」
銀の小粒の入った革袋を、与一郎の手に押し付けた。
麝香は藤孝がお玉を討てと命じたと聞き、こうなるだろうと察していたのである。
「ただし家を捨ててはなりません。お玉どのの無事をはかったなら、必ず帰ってくると約束して下さい」
「しかし、母上」
「お前はまだ二十歳(はたち)です。逃げずに立ち向かえば、かならず道は開けます」
それまでこの子たちは預かっておくと、麝香はお長の枕元に座り込んだ。
夜明け前、与一郎はお玉をつれて宮津城(みやづじょう)を抜け出し、信長から与えられた奥州馬に乗って西に向かった。
竹野川ぞいの味土野(みどの)に、信頼できる友がいる。そこにしばらく身を寄せて、再起の道を探ろう。お玉を片手に抱いて馬を走らせながら、与一郎は初めて自分の足で立てた気がしていた。
〈了〉