遠くに声が聞こえていた。
それともあれは風の音だったろうか。深い緑の間を抜けてゆく風が、そこここでささやき交わしている声だろうか。
少女はひとり立ち尽くしている。こんなことは久しくなかった。ただひとりで、木々が生む蔭のもとにいるなんて。本来なら、こんなふうに出歩いて良いはずはなかった。隠れていなければならなかった。
少女、いや、既に夫も子もある身であった。二十年に満たない人生ではあったが、すでに充分なだけ運命の変転を味わってきた。
彼女は、宝物という意味の名を持っていた。
後の世に、三日天下と呼ばれる武将の娘として生を受けた。もちろん、宝として育てられ、やがて宝と呼ばれるに相応しい美貌の持ち主に成長する。
父の友人の息子のもとに嫁いでおよそ二年、あの時までは、なに不自由なく生きてきたのである。あの時、すなわち父が三日天下と呼び習わされることになる、その事件が起こるまでは。
「隠れてくれ」
夫の申し出は意外なことだった。
義父と夫は、彼女の父親に協力することを拒んだ。父親は、天下を取るために動いたのだ。しかし義父は、それが成就しないであろうことを確信した。息子の嫁の父親であり、古き友人の申し出を拒絶する。
しかし夫は、嫁を帰すでもなく、殺すでもなかった。また、父の予想通りに義父の目論見が潰えた後にも、彼女を守ろうとした。人目に付かぬ土地に彼女を送り、かくまったのである。山深き、緑深きこの場所に。冬には雪に埋もれるこの味土野(みどの)の地に。
だから……。
ひとりきりでこんな緑の中にいるなんて、許されることではなかったのだ。
長く、見事な黒髪を風にさらしていた。
心地よい風だった。
息苦しいまでの生活から、ひととき解放されたかのように思う。父方の兵士に出会ってもならない。父を討ち取った勢力に出会ってもならない。自らの住まいが、何者かに知られているのかどうか、それさえ分からぬまま、ただおとなしく屋敷に隠れているばかりの暮らしであった。
不安は、むろんあった。
そもそも、いつ自分はこの場所に来たのだろうかと思う。なにか予想もつかぬ出来事に巻き込まれているのではないか。あるいは、夢でも見ているのだろうか。
しかし風の心地よさはまぎれもなく身体に満ちているのだ。夢のようなあやふやさは欠片(かけら)もなく、ただ爽やかさに包まれている。
ならば、悩んでみても仕方がない。今は、自分の置かれた境遇に添って行くのみ。夢であろうが、現(うつつ)であろうが、かまいはしない。
季節は春か、あるいは遅い夏か。いや、夏ならば蝉(せみ)の声が聞こえているだろう。
朝、だろう。まだ早いようだ。日の光は横から柔らかに届く。
自分の置かれた状況に、彼女はためらい、しかし、木陰から出て歩き出した。足袋裸足(たびはだし)であったが、苦にはしなかった。
「おお、藤か」
太い木にからみついた蔓と、可憐な薄紫の花を見つける。ならば季節はやはり春か。初夏へと向かう、もっとも気持ちよい季節だ。その花の見事さに、蔓(つる)のひと枝を手折った。屋敷に戻り、その機会があれば挿し木にできるかもしれない。
浮き立つ気持ちで、さらに足を進める。
広くなった場所に、墓所のようなものを見つけた。ふいに兆(きざ)した不安に、けれど歩みを止めることはかなわない。
風がゆく。
鳥の声が聞こえる。
いや、あれは彼女を呼ぶ声だ。
行ってはならぬと呼ぶ声だ。声に聞き覚えがある、おそらくは侍女の……。
それでも足は止めない。
止めることができなかった。
石を積んで造られた、ただし墓とは趣の異なる、記念碑のごとき設(しつら)えに、不安と同時に沸きたつのは憧憬のような感情。見たこともない石碑に、なぜか深い懐かしみをおぼえる。
急げ。急がねばならないと、自然に足が速まり、ついに彼女は見た。
一年や二年とは思えぬほどの歴史を感じさせる、その石の表面には、文字が刻み込まれていたのだ。
思わず知らず、笑みがこぼれる。まるでなにかの冗談ではないか。
『細川忠興夫人隠棲地』
だが、あたりに屋敷の姿などない。
あるのはただ、深い緑。風。鳥の声。
しばしその場に佇(たたず)み、空を仰ぐ。
目に入ったのはいつも寝起きしている部屋の天井ばかり。
薄闇の中、手には藤のひと枝。
〈了〉