田とは水田のこと。辺とはそのあたりということ。ならば田辺(たなべ)とは水田にほど近いという意味か。田辺城と名を持つ城は京都府舞(まい)鶴(づる)市と和歌山県田辺市にそれぞれあった。舞鶴は田辺城の別称、舞鶴(ぶがく)城から取った言葉であるから、いずれも城の名が現在の地名になったことになる。「辺」が近傍という意味ならば、市全体を「近傍」と考えるのは適切ではない。やはり、ランドマークたるべき城が大きく地名となり、城はその周辺の状況をもって名付けられたと考えるべきだろう。
 丹後田辺城、別名舞鶴城。その名は、鶴の飛来をもってそう呼ばれたのではなく、その城郭の美しさによるものであるという。
 この城を築いたのが、細川幽斎(ゆうさい)である。かの剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)に剣を学んだ武人であり、茶道、和歌、囲碁など多彩な才能を見せる文人でもあった。
 田辺城は、その名の示す通り周囲に低湿地を持つ攻めるに難い城、武人としての幽斎の意志を示す。一方、舞鶴城の名の通り、美しいその姿は文人としての幽斎の力量を示していると考えられる。いわば、文武の両面を持つ城である。
 この点を特徴的に表しているのが、関ヶ原の合戦への前哨戦的意味合いを持つ田辺城の攻防であるだろう。文と武、いずれの視点が欠けても、この戦いの意味を捉えることはかなわない。
    *
 い・
戦ともなれば勝つことが必須である、と誰もが思うものだ。
 に・
逃げてしまっては、敗者と思われても仕方がないだろう。
 し・
しかし、勝たずして勝つ、ということが起こりうる。
 へ・
変則的な方法だが、たとえば「時を稼ぐ」というやり方だ。
 
 も・
もちろん、ただの消耗戦を行っては時を稼ぐことなどできはしない。
 い・
一万五千から、やがて二万にも及ぶ西軍の兵に取り囲まれた幽斎の田辺城。
 ま・
まずは火縄銃を有効に利用する高等戦術によって敵を攪乱(かくらん)する。
 も・
もちろん籠城(ろうじょう)しているのだが、味方の数はおよそ五百と少ない。
 か・
勝とうにも、とうてい勝てはしない状況であった。
 は・
はじめから、ただし幽斎は勝とうとはしなかった。
 ら・
楽勝だろうと敵が思う戦力差、そこにつけ込む道を選んだのである。
 ぬ・
沼のような周囲の地形からでは、城に近づくのも簡単ではない。
 よ・
ようやく近づけば狙い撃ちされる、と思えば無理はしたくないのが人情だ。
 の・
後に天下分け目と称される関ヶ原の合戦だが、ここではまだそこまでの気概はない。
 な・
なるべくならさっさと降伏して欲しい、くらいに敵は思っているわけだ。
 か・
かなうならば幽斎を殺したくない、という武将も敵軍には多かったらしい。
 に・
握っていた隠し球もあった。
 こ・
古今伝授(こきんでんじゅ)と呼ばれるものが、そのひとつである。
 こ・
古今和歌集の解釈にまつわるものとされるが、他にも秘密があったのだろう。
 ろ・
籠城している幽斎の命を助けようと、朝廷からも介入が行われるほどだった。
 の・
飲めば戦が終わってしまう講和の求めである。
 た・
ただし幽斎は、戦を終わらせるわけにはゆかなかった。
 ね・
粘りに粘って、敵の大軍を自分のところに引きつけておく必要があった。
 を・
治まらせぬまま古今伝授だけは行い、それによってまた時を稼ぐ。
 の・
のんびりしているわけではないが、この状況では敵も手を出せない。
 こ・
このように幽斎は、文と武、おのれの持てる能力をすべてここに注ぎ込んだのだ。
 す・
少ない兵力ながら、およそ五十日、敵の大軍を足止めしたのである。
 こ・
こうして時を待ち、ついに勅命(ちょくめい)によって講和を受け入れることになる。
 と・
時に慶長5年9月13日、幽斎は田辺城を明け渡したのだった。
 の・
後の世を、これは決定づけることになるタイミングであったらしい。
 は・
半日ほどで終わる二日後の関ヶ原の合戦に、二万の敵軍が間に合わなかったのだ。
    *
  古(いにし)へも今もかはらぬ世の中に
    心のたねをのこす言の葉
 田辺城での古今伝授の際に幽斎が詠んだとされる歌だ。
 幽斎は、変わらぬはずの世を、実は言葉によって変えたのである。
〈了〉