ホテルの最上階にあるバー『サンタマリア』のカウンターで俺はスコッチをロックで飲み続けていた。
「少しペースが速いようですが……」
「放っておいてくれ。飲みたいんだ」肝臓が壊れてもいい。俺は妻、珠里(じゅり)を殺したんだ。
「先ほどから、何度も珠里を殺したとおっしゃってますが。もしや当ホテルで亡くなった板坂珠里さんのご主人ですか」バーテンはグラスに氷だけ入れて、俺の顔を見つめる。
「だったら何だ。いいから酒を注いでくれ」
「大変お気の毒なことでした。でも三ヵ月前のあの事件は……」バーテンが言葉を呑んだ。
「自殺だっていうんだろう?」
「ええ。遺書もございました。『ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ』」バーテンが諳(そら)んじたのは細川ガラシャの辞世の歌で、珠里が大量の睡眠薬を飲む前に遺したメモだ。新聞でも報道されたし、ホテルでも話題になったのだろう。
書き置きの筆跡は間違いなく珠里のものだった。さらにホテルの花屋で買った白百合を一輪、胸に抱いて横たわっており、覚悟の自殺であることを物語っていた。
「でも俺のせいなんだ」バーテンが置いたグラスにすぐ口をつけた。喉に痛みが走る。
珠里と結婚して二年あまり、彼女には迷惑をかけ続けてきた。俺は結婚後間もなく脱サラして、メンズ小物のネットショップを立ち上げたが大失敗。借金だけが膨れあがり、日々の暮らしさえままならなくなった。
仕方なく珠里は、結婚前に勤めていた斉藤物産の受付係に戻ることにした。独身時代、社長の斉藤に何かにつけ言い寄られると困っていたのを知っていた俺は反対した。しかし珠里は「私は大丈夫。この不況時に雇ってもらえるだけありがたい。一緒に乗り越えましょう」と逆に俺を励ましたのだ。
「俺はそんな妻を責めたんだ」珠里が懸命に働けば働くほど、俺は嫉妬した。ひも亭主といるより、斉藤のようなやり手と結婚すれば良かったんじゃないか。「何なら別れてやってもいい」などと心にもないことを口にした。
「まさか自殺するとは思ってもみなかったんだ。妻はガラシャに心酔してた。俺にはよく分からないが、ガラシャはカトリック信者で、最後まで自殺を拒んだはずなんだ」
妻を忍んで友人が漏らした言葉を、俺は思い返していた。「珠里は高校時代からガラシャにのめり込んでました。夫の細川忠興(ただおき)への愛を貫いたところが好きだったんです。なのに自分には、二人の男性を惑わす悪魔が住んでいるのかと悩んでました。責めるわけではありませんが、ご主人に信じてもらえないことが辛かったんじゃないかしら。でも自殺は信じられません。ガラシャみたいに自殺は神を裏切ることになるって言ってましたから。教会に相談しに行ってたみたいだから、きっと立ち直ると思ってたのに」
「もし亡くなる前に教会に行かれたとすれば」バーテンが沈んだ面持ちになった。
「教会に行ったところで、結局自殺した。救われなかったんだ」俺はグラスを握りしめた。
「いえ、当ホテルの教会の神父が言ってたんです。カトリックは一九八三年の教会法典で自殺者の埋葬を許可している。つまり自殺者にも神のご加護があると。それに自ら命を絶ったとしても、他者のための自己犠牲なら、自殺として見ないそうです。ガラシャが死んだのは1600年ですから、時を経て宗教上の解釈も変わってきたということでしょう」
「そんな……妻はそのことを知って、死んでしまったのか」自殺が大罪だと言わていれば、珠里は睡眠薬を飲まなかったかもしれないのに。救いとは何なんだ、救いとは……。酒で痺れた頭に同じ言葉がこだまする。
「お客様。私、何だか引っかかるんです。奥様が胸に抱いていた白百合が。白百合の花言葉は……」バーテンの言葉が遠のいていった。
気がつくと夜が明け、ホテルの自分の部屋にいた。怠(だる)い身体を起こすとベッドサイドテーブルに封書があるのに気づいた。便せんにはこうあった。「ガラシャは三十八歳で亡くなった薄幸の人生ですが、彼女にも幸せな時期がありました。勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)で過ごした二年あまりの新婚時代です。長岡京市の勝竜寺城公園へ行き、そこにあるガラシャ像を見てください。サンタマリアのバーテンより」
バーが開くのは夜、バーテンに手紙の真意を確かめる術もなく、俺は言われた場所に向かうことにした。
長岡京駅を出て七、八分歩くと、真っ赤なツツジが咲き誇る向こうに、堀と城壁が現れた。公園内に入って銅像に近づき目をやった。忠興の隣に腰掛けているガラシャが、大切そうに百合の花を持っていた。
「白百合の花言葉は純潔です。奥さんはあなたを愛していたんですよ」というバーテンの言葉が蘇った。ガラシャの顔が珠里の微笑みに見える。珠里は俺との暮らしが幸せだったと、言い残してくれたのかもしれない。
〈了〉