宮津(みやづ)に築城した藤孝(ふじたか)を、連歌会を兼ねて訪ねた光秀は、戦にも出られぬほどの大病を患ったあとの病み上がりの身体だった。長い道のりを馬に揺られ辿り着いた宮津湾は美しく、夕暮れの水面に、病魔に蝕まれた心まで洗われるようだった。
天へかかる橋。あれがいつか神と繋がったとき、自分は救われるだろうか。
――貴様は俺と足利(あしかが)、どちらを選ぶ。
決断を迫られたあのとき、主君となる男は脇息(きょうそく)に凭(もた)れ、光秀の顔を見つめていた。答えられなかった。藤孝は迷うことなく信長を選んだが、光秀はこの男が恐ろしい。闇か、光か、その先に見えるものは。
沈黙の痛いほどの部屋の中、信長はその静寂を指先で叩き割るように腕を伸ばし、光秀の頤(おとがい)を乱暴に掴んで顔を寄せた。
もう片方の手には鞘の外れた懐剣が握られており、身構える隙もなかった光秀は身体を硬くしつつも、されるがままに信長の顔を焦点の合わぬ目で見返した。
――貴様に鋼の鎖をくれてやろう。
――……鎖。
――わたしと繋がる、決して断ち切ることのできぬ忠義の鎖をな。腕か? 足か? 首か? どこに繋いでやろうか。
懐剣の切先が喉元から開(はだ)けた胸へと滑ってゆく。ときおり痛みが走り、光秀は喘ぐように呻いた。
――今一度問う。貴様は俺と足利、どちらを選ぶ。
指の力は鋼のように強く、いっそ本当に繋いでくれ、と光秀は恍惚とした痛みの中に願った。自分の居る場所はここではない、とこれまでずっと感じながら生きてきた。抗えないまま重い鎖に繋がれ、逃げることができなければそこが必然の死に場所になる。
死に場所を探す光秀は掠(かす)れた声で主君の名を呼んだ。
決断を迫られることは多々あった。それでもあのとき、もし義昭を選んでいたら、自分はこれほど、心まで痩せ衰えることはなかったのではないかとも思う。忠義という重い鎖は足に、腕に、首に絡みついたまま光秀を縛りつづける。
――身体は大丈夫なのか。
藤孝は城に程近い東屋(あずまや)に休む光秀に問うた。
――大事ない。
心の内を悟られぬよう、微笑んで光秀は答えた。そして夕暮れの茜さす水面を眺める。
足利と決別したとき、義昭は信長を鬼と言った。鬼ではない、あの男は闇だと光秀は思う。飲まれたら光を求めてもがくしかない、果てしない闇だ。そなたも鬼となるつもりか。義昭の問いに光秀は是を提した。
藤孝は痩せ衰えた光秀の横顔を心配そうに見つめる。十五年、近いところにいても遠く離れていても、共に支えあい生きてきた男にこのような顔をさせるのはしのびなかった。一乗谷(いちじょうだに)で藤孝に出会ってさえいなければ、光秀はおそらく信長の家臣にはなっていなかっただろう。けれど藤孝と出会わない運命など今は考えられなかった。
ありがとう。
そう言おうとして、不覚にも涙が込み上げてきた。
――良いところだな。
言葉をすげかえ、涙を堪える。そして二言三言の言葉を交わしたあと、堪え切れなかった涙が溢れた。
藤孝と顔を合わせるのはこれが最後になる。本当は決意が鈍りそうで、会うのはやめようかと思っていた。けれど今わの際に悔いることのないよう、旧友の顔を焼き付けようとここに来た。
城を背後に望む宮津湾は、夕暮れの光に細かく白く輝く。
十年、信長を殺すことだけを考えて生きてきた。自ら望んで繋がれた鎖を断ち切ることだけを。
肩に添えられた藤孝の手のひらの温もりが消えた一年後の雨の夜、光秀は謀反を起す。
〈了〉