赤ん坊の世話を終えて妻が立ち上がると、夫はベビーカーの取っ手をつかんだままあらぬ方角を向いていた。
「どうしたの?」
「おかしな夫婦だと思ってさ」
「私たちのこと?」
「それは今さらだろ。そうじゃなくて、あっちのお二人さん」
夫が示したのは細川忠興(ただおき)とガラシャの像だった。長岡京市の観光スポットにして市民の憩いの場、勝竜寺城公園の一角である。
「作者はどういうつもりだったのか知らないけど、死んでからも目を合わせもしないなんて。ガラシャは植物学者みたいにじっと手元の花ばかり見つめていて、忠興は少し離れておそるおそる様子をうかがっている」
「あら、前は仲むつまじいとか言ってたくせに」
「てっきりそう思ってたから、意外な気がしてさ」
「自分の心境を重ねてるんじゃない?」
「よせよ」
むっとして夫が制し、少し間が空いた。
「だいたい仲良くできる間柄じゃなかったのよ。ずっと戦争状態だったんだから」
「あれ? ガラシャと言えば『妻の鑑』みたいなイメージがあるけど」
「何にも知らないのね。地元民のくせして」
「あいにく理系なんでね。レキジョ様が解説してくれよ」
「はいはい。ガラシャの父親が明智光秀だったってことは知ってる?」
「へえ、そうなんだ」
「光秀と忠興の父の細川藤孝(ふじたか)は旧知の間柄で、織田信長が両家の縁組を取り計らったの。家臣どうしの結束を固める意図があったんでしょう。光秀はそれを逆手にとって、本能寺の変の後、細川父子に味方を頼むわけ。ところが、細川父子はあっさり断ってしまう。主君への忠義だとか何とかいう理由づけだったけど、要するに保身よ。おかげで光秀は秀吉に敗北し、ガラシャは離縁こそされなかったものの、山里に幽閉されてしまった……」
「ガラシャにしてみれば、裏切られた気持ちだろうな」
「しかも、夫の裏切りはそれだけでは済まなかった。自分が幽閉されている間に、夫は側室に子供を産ませたの。今で言えば、妻が出産のために実家に帰っている間に浮気するみたいなものかしら――あら、どっかで聞いたような話ね」
「……」
「もしかすると、ガラシャにとってはこっちのほうが頭にきたかも」
「だけど、当時は側室なんて当たり前のことだったじゃないか。跡継ぎをもうけるのも大名の仕事のうちだったんだし。たぶん、君が自分の立場と比べて共感しやすいからそう思うだけだろう」
「だからって奥さんがおもしろいわけがある? それに、私だけじゃないのよ。ガラシャがキリスト教の教義で特に気に入ったのは、一夫一妻制だったっていう説もあるの。実際、忠興は他の女にもちょっかいを出して、彼女は神父に離婚の相談までしている」
「だけど、カトリックは……」
「ええ。神父は反対して彼女は諦めた」
「宗教にまで裏切られたってわけだ。救いがないな」
「そう。ずっと苦難の連続だった。でも、この城に輿(こし)入(い)れして、他の城に移るまでの二、三年は幸せだったらしいわ。子供も産んで。だから、あの像が仲むつまじく見えたとしても、あながち間違いだとは言えないの」
「ふうん……」
夫は思い切って提案した。
「だったら、俺たちもここにいる間だけは休戦といかないか。あの二人に敬意を払って」
「いいわよ」
意外にあっさり妻は応じた。
それからガラシャの壮絶な最期について妻が語るのを聞きながら、夫はベビーカーを押していた。生き生きと弁ずる妻もまた満足そうだった。久しぶりに穏やかな気分だったが、やがて帰る時間が来て、出口が近づいてくると、妻の口も夫の足も重くなった。とうとう門の手前で二人は立ち止まった。
「やれやれ、休戦はここまでか」
「そのようね」
「では、覚悟を決めて、いざ出陣!」
踏み出した夫の後ろから妻が言った。
「そうそう、光秀は秀吉と戦ったとき、この城から出陣していったのよ」
「ちぇっ、負け戦かよ」
〈了〉