「この地はかつて『御殿(みどの)』と呼ばれておった――」
深い雪に降り埋められた山小屋の中、囲炉裏に薪をくべつつ、老爺(ろうや)は物語り始める。
「まさにこの場所に、奥方様のお住まいなさる女城(めじろ)。谷一つ隔てて、御側の者が暮らす男城(おじろ)。二つの屋敷は深い堀に囲まれ、さらに険しき丹後の山々に包まれ……戦国の世から隔てられておった」
老爺はそう言い、手にした薪を折った。
「もはや、ここまでじゃ――」
夜闇に飛沫(しぶ)く滝の側、傷ついた男は膝をつき、若者に命ずる。
「ここは引き受けた。うぬは行け。御役目を果たせ」
「――なりませぬ! いや、かの御方の顔を、俺は知らぬ……独りでは行けませぬ!」
闇の向こうから、追手の気配が近づいてくる。裂けた腹を掌に押さえながら、傷ついた男は苦しげに笑んだ。
「案ずるまでもない。一目見れば分かろう。世の誰よりも美しく、聡い女性である故に、な――行け。御役目を……」
「……父……」
声を、涙を呑み込みつつ、若者は跳躍した。鳴滝と、剣戟の音とを背後に振り切り、夜の峰々を駆け抜けていきながら――その地の山深さに、今は改めて驚愕していた。
……文字通り、鳥も通うまい。このような山奥に、二十歳にも満たぬ若さで封じられるとは――本能寺――父親の謀反は、娘の罪ではなかろうものを。
道理ではあり得ぬ咎めを、太閤の権勢を恐れるあまり、母子を引き離し、罪なき妻を押込にする。戦国の世を生き延びるとは、なんと苛(むご)いものなのか……。
駆ける。暗く深い山奥の夜を、若者は駆ける。
闇の中に映える灯を目当てに、堀を跳び越える。人気のない庭に降り立ったそのとき――灯に照らされた障子が、開かれた。
「…………」
月でも見ようと、縁に出たところであろうか。月光に照らされた面立ちの美しさに、目指すその名を呼びかけるより早く――女性が、呟いた。
「忍びか……忠興(ただおき)様の……」
「……は……」
美しく、また聡い――噂に違わぬその女性を前に、若い忍びは平伏した。
「忠興様は――」
「共にお越し下され、奥方様。どこまでもお守りするよう、御命を頂いております」
「…………」
「離縁とは、乱世を凌ぐ表向きのこと。殿は、奥方様を変わらず想うておられます。……手筈は既に。秘かにここを脱けた後、ゆくゆくは殿の――お子様方の元へとお連れ申し上げましょう」
「…………」
お珠(たま)は、答えない――縁から見下ろす美貌に震えながら、若い忍びは庭土に額を擦りつける。
「猿めの天下とて、永劫ではございませぬ。世間を忍ぶ屈辱なぞ、一時のこと……どこまでもお守り申し上げるよう命ぜられております。……今は、某と共に外界へ。奥方様。奥方様……」
「…………」
お珠は、暫(しば)し沈黙していたが――やがて、しめやかに笑いだした。
一頻(しき)り、声を殺して笑い終えると、茫然と驚く若者の前、いっそ愉(たの)しげに響く声を、月夜に向かって張り上げる。
「誰かある。曲者はここに。誰かある――」
「美しく、また聡い。そうした御方ゆえ……あの頃にはもう、悟っておられたのやもしれぬ」
幾本めかの薪を折りくべながら、老爺は呟いた。
「乱世の定めにも挫けず、人の心にも依らぬ何かを……何にも依らぬ強き想いを、御心の内に固めつつあればこそ――奥方様は、某と共に来られなかったのじゃろう。いや、外界に出ることも、世間を忍ぶことも、あの御方にはもはや必要でなかった。奥方様は、この御殿にて……山深き味土野の地にて……」
――さすれば、御老は――
幕府の役人が問いかける前、老爺は頷き、微笑する。
「どこまでも、お守り申し上げる――そう命ぜられた故に、のう……」
小屋に染み入る寒気の中、投じられた薪が弾け、囲炉裏に燃え上がる。
その炎が、老爺の胸元の何かを照らし――小さな十字の光を撥ねた。
〈了〉