「はい、では次の方どうぞ」
「実は、父が変なんです」
「といいますと? 鬱病とか、そういう類でしょうか?」
「どうなんでしょう。わたしこころの病のことはあまり詳しくありませんので、それでここへお伺いに参った次第なんですけど」
「わかりました。お聞きしましょう。どんな症状なのですか」
「はい、実は、父が父でなくなったみたいなんです」
「と、おっしゃいますと?」
「それが、……自分は明智光秀であると言い出したのです」
「ほお」
「驚いたでしょう? 変ですよね?」
「まあ、とにかくまずは詳しくお聞かせいただけませんか」
「五日前のことでした。最初はなんの変哲もない朝だったんです。父も、いつものように顔を洗って起きてきて、新聞を広げました。でも、朝食のパンをかじるや、
『うむ、みごとじゃ煕子(ひろこ)』
なんていきなり母を絶賛しだしたのです。
『このビスコートは実に美味ではないか。かつて信長公の元でご相伴にあずかった代物とは大違いである。それにこの油のうまみがたまらぬわ』
などと相好を崩すではありませんか。
『ただのヤマザキパンやけど。いつも食べてるやないの。マーガリンだって、スーパーの特売品やしね』
いらついた母は、そんな風に吐き捨てたのです。わたしにも父が冗談を言っているとしか思えませんでした。
数分後、ふたたび父がキッチンに姿を現しました。いつも通りの背広姿で、ネクタイもきちんとしめていました。
『さて、二人ともしかと聞け』
こほんと咳払いをすると、父はそんな風に切り出したのです。
『なんやのん、改まって』
変な口調の父に、母はとことんあきれたようでした。すると父は急に厳粛な顔つきになって、
『本日これよりわしは、謀反を起こそうと考えておる』
なんて、思い詰めた口調で言い始めたんです。
『ええ、なに、ムホンって』
『わが主君、信長公への謀反である。すでに配下一万三千騎には周知了承を得ておる。本日、これより、本能寺にて茶器をめでておられるわが主君を包囲し、焼き打つ所存である。とはいえ、これは下剋上、世間的には裏切り行為となる。よってわしが天下を取った暁にはお主らにも、さまざまなる苦労を強いることになろうことゆえ、こうして前もって周知しておく次第である』
そのとき、つけっぱなしのテレビが、八時をお知らせします、ぴっぴっぴっぽー、ととぼけた音を立てたため、わたしと母は笑い転げました。
『ああ、面白(おもしろ)。わかった、わかった。ほな行ってらっしゃい。いつもの乗るんやったら、八時十五分やし、急いでこがなあかんで、自転車』
いうなり母はくるりと背を向けて洗い物をし始めました」
「それから、どうなりました」
「よく考えたら、わたしも大学の授業の一時間目があったんで、急いで自転車で後を追ったんです」
「それで?」
「ええ、それが」
「なんなんです?」
「わたしの家は堀川通りに近いんですけど、自転車でそこまで漕ぎ出したところで、わたし目を疑っちゃったんです」
「どうしてです」
「自転車です。背広を着たサラリーマンの群れが、自転車に乗って『わー、わー』って、ほらなんていうんでしょうかあの感じ」
「鬨(とき)の声ですか?」
「そうそう。その鬨の声みたいのを上げながら、ずんずん下って行くんですよ。それでね、はたと思い出したんですけど、堀川通りって、ずっと下っていくと四条通りの手前ら辺に堀川高校があるじゃないですか」
「つまり、旧本能寺跡地の近くってことですね?」
「ええ。自転車が上り下りの車道を全部埋め尽くしてて、車も走れない状態になってて」
「それで」
「やがて、その下の方角から、どーんって大きな音が響いて、遠目にもわかる火の手が上がったんです。消防車が駆けつける音も響いてきました」
「で、確認しに行ったんですか」
「いえ、一時間目の授業に遅れると困るんで、大学の授業に向かいました」
「じゃあ、ここに来る理由もないんじゃないですか。何事もなかった、あれは冗談だったと判断されたんでしょう?」
「ええ、その時点では。でも、それから五日間、父は一度も家に戻ってこないんです」
「出張とかじゃなくって?」
「確かに、母は急な出張やないのなんて、気楽に構えてます。でも、携帯にかけてもずっと圏外なんで、わたし心配になって父の会社に電話してみたんです」
「それで?」
「ええ、それが、そんな人物はいないって」
「おやおや、それは」
「わけわかんないですよね。それで、わたし思い切ってこう尋ねてみたんですよ」
「つまり」
「ほんとうはわたし明智です。光秀の娘で珠と申しますって」
「おお、それは確かに思い切りましたね」
「そしたら、急に向こうの態度がガラッと変わって、これはこれはみたいな感じになったんです。ご存じのように、いま社をあげて自転車にて安土に移転中なんです。それで、バタバタしておりましてみたいな。確かに自転車漕いでるらしくて、その人も息が切れてましたね」
「安土城入りだね。それにあれだな、どうやらそのお父さん的な世界では、馬の代わりに自転車を走らせるということのようだ」
「でまあ、ゴタゴタの最中だったけど、ずいぶん待たされてやっと父と話せたんです。『おお、珠か。元気にしておるか』って笑うものだから、『それどころじゃないわよ、歴史のことわかってるの父さん』ってわたし大声出してました」
「そうですね。秀吉が戻ってきて山崎の合戦で破れてって流れですよね」
「ところが、それでも父は『やつは来んよ』なんて笑うんです。だから、『何言ってんの、備中(びっちゅう)大返しが起こるのよ』ってわたし叫んだんです」
「そしたら?」
「ええ、そしたら父は澄ました感じでこう答えたんです」
「なんですか」
「『やつは自転車に乗れん』」
〈了〉