官兵衛が駆けた時代 ~兵庫・戦国の城5選
羽柴秀吉の知将・黒田官兵衛が駆け抜けたゆかりの城5選です。 竹田城、姫路城、洲本城、有岡城、三­木城。
Update Date : 2015-12-30 20:19:47
Author : ✎ htakagi


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官兵衛が駆けた時代 ~兵庫・戦国の城
羽柴秀吉の知将・黒田官兵衛ゆかりの城。 官兵衛が城代であった姫路城、 約1年にわたり幽閉されていた有岡城、 官兵衛が攻めた三­木城、竹田城、(官兵衛も攻めた)安宅氏の拠点だった洲本城。
竹田城
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。 国の史跡に指定されている。 また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。 東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。 天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
【官兵衛とのかかわり】  秀吉の参謀となったあと、官兵衛は、生野銀山を管轄する太田垣景近(おおたがきかげちか)の居城であるこの城を攻めた。 軍師に官兵衛を擁し、着々と播磨平定をすすめつつあった秀吉にとって、但馬国侵略は北の毛利氏をけん制する重要な布石。 とりわけ竹田城は、生野銀山を管轄しており播磨に通じる要所であった。 http://blog.livedoor.jp/tefutefu625/archives/3309155.html

竹田城
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1
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姫路城
姫路城天守群(平成の修理後)
指定文化財  国宝(大小天守と渡櫓等8棟)  国の重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)  国特別史跡  ユネスコ世界遺産
姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力。 一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
【官兵衛とのかかわり】 『黒田家譜』によると、官兵衛は天文15年(1546)に姫路城で誕生した(ただし、現在の姫路城は関ヶ原の戦いの後に築かれたもの)。 最初の姫路城はおそらく永禄4年(1561)に官兵衛の祖父重隆と父職隆(もとたか)が姫山に築いた新城だと思われる。

姫路城
34.8393556284893
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0
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洲本城
洲本城(すもとじょう)は、淡路国津名郡、現在の兵庫県洲本市にある日本の城跡。別名三熊城。国の史跡に指定されている。
【官兵衛とのかかわり】 黒田官兵衛は、羽柴秀吉から淡路及び阿波攻略を命じられ、毛利氏と結んだとされる洲本城、由良城を拠点とする安宅氏攻めに加わり、これを攻め落とした。 このとき、官兵衛が安宅河内守(あたぎかわちのかみ)を討ち取ったとされる刀が現在まで伝わる備前長船祐定作「名物 安宅切り」(重要文化財)。
洲本城
34.3374770650341
134.90282147977268
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有岡城
・南北朝時代:伊丹氏により築城。伊丹城と称する。 ・天正2年(1574年):荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。 ・天正7年(1579年):村重謀反により織田軍に攻められ落城。
有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。 織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。
【官兵衛とのかかわり】  黒田孝高の投獄場所 この戦いは、黒田孝高(官兵衛、当時は小寺孝隆)が約1年間投獄されていたことでも有名である。 孝高が閉じ込められていた場所は有岡城の西北にあり、後は深い沼地、三方に竹藪に囲まれていて日も差し込みにくく湿気が多い場所であった。

有岡城
34.78127236941702
135.42094215710677
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三木城
三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。
三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。
【官兵衛とのかかわり】  竹中半兵衛と黒田官兵衛が共に三木合戦に参加。 官兵衛はこの戦いにおいて先陣を務めたと言われている。 この戦いにおける官兵衛の動向の詳しい史料は残されておらず、この間官兵衛自身は1年にわたって伊丹有岡城に幽閉されていましたが、采配を振るったのは確かなようです。 この「三木の干殺し(兵糧攻め)」を提案したのが、羽柴秀吉の元で働いていた小寺官兵衛(黒田官兵衛)か竹中半兵衛だったとされている。

三木城
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-76.83794777922662
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0
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