黒谷『永運院』の魅力
「黒谷 永運院」は、 1591年(天正19年)江戸初期に宮城豊盛が建立。 本堂(方丈) - 京都府登録文化財。 表門 - 京都府登録文化財。 表門の石碑の揮毫は書家『川尾朋子』さん。
Update Date : 2019-11-02 09:29:34
Author : ✎ Kyoto Culture
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永運院へのアクセス

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永運院
・最寄りのバス停は京都市バスの「岡崎道」です。 ・ここへのアクセスは、地下鉄(烏丸丸太町、東山、烏丸四条)、阪急(河原町四条)、京阪(祇園四条)、JR(京都)からバスが便利です。
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金戒光明寺御影堂前の車止め
車で来られるときは、空いていれば、御影堂前に駐車できます。
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バス停『岡崎道』から永運院への参道へ

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バス停『岡崎道』
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上記写真の撮影場所です。
ここの道へは、 バス停『岡崎道』からは、西へ少し行き、「岡崎通」から進んでください。
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永運院表門と唐門
書家 川尾朋子の日記 | 永運院の石碑が完成しました!
永運院の石碑が完成しました! 昨年の6月より、京都のくろ谷にある「永運院」の石碑をつくるプロジェクト(勝手にプロジェクトにしました)が立ち上がり、石碑の文字を揮毫させていただく事になりました。 今年の2月に香川県高松市庵治に石を見に行き、 石屋さんともお話し合い、打ち合わせを重ね、 刻字してもらう石材工房までお邪魔して、 1年がかりで完成いたしました。 「永運院」何回書いても納得できなかった。 ある日、朝起きて、墨をすって、 パッと一枚目に何も考えずに書いた文字が、 石碑の文字となりました。 あの日の朝日は今でも覚えてます。
石は庵治石を使用。 平成24年建立。
永運院 - Wikipedia
永運院出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永運院の庭園
永運院住職 土肥真司さん
神さまの思し召しで出家した人/永運院住職 土肥真司さん (上)
小さい頃から春、夏、冬休みは必ずこのお寺で過ごしていたので、おじいちゃんおばあちゃんのことが大好きやったんですね。「もしおじいちゃんが死んだら、おばあちゃんはここを出ていかなあかん」と言われまして、継ぐとしたら僕しかいないよなあ、と。坊主になるのにこんな言い方はおかしいけれど、「これも神様の思し召しかなぁ。坊主になれって言うたはるねんなあ」と思って(笑)。「じゃあお寺に入ります」みたいな感じだったのよね(笑)。
神さまの思し召しで出家した人/永運院住職 土肥真司さん (下)
ここでパフォーマンスをするとすごく集中できますし、観客も自然にリラックスできるスタイルでいられます。 さらに、観客とパフォーマーは非常に近い距離感で空間を共有することで、エネルギーが循環してすごくいいものが出来上がっていくんですね。 それは、この空間でしか生まれないものですし、それもこの場所を「生かす」ということになると思います。 だから、ここで何かをやりたいというお話があるときには、あくまでここは「場所貸し」ではなく、この空間とアーティスト、お客さんの三つが一体になって空間を作るということを意識してほしい。
永運院建立の宮城 豊盛(みやぎ とよもり)
宮城豊盛 - Wikipedia
宮城 豊盛(みやぎ とよもり、天文23年(1554年) - 元和6年(1620年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。 豊臣秀吉に仕え、三木合戦で功を挙げ、小田原征伐や文禄・慶長の役に参陣する。京の金戒光明寺再建の奉行を務める。 駿府の徳川家康に仕え、家康死後は徳川秀忠の御伽衆となった。 元和元年(1614年)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619年)京都知恩院の普請奉行を務めている。 翌、同6年(1620年)京都にて67歳で死去。 墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。
【秀吉の時代】対徳川対策 --秀吉は、豊盛に光明寺を城塞化するよう命じた。 ーー もしも、家康が京へ攻め寄せ、鴨川のほとりまで迫ったとき、その徳川勢の横っ腹を衝くことが上策であろう。 そのためには出丸が必要となる。偶然にも、黒谷は京への進入路である粟田口に程近く、吉田山とともに東山と鴨川の間に盛り上がっている。ここに砦を築き、相応の兵を置いておけばよい。 秀吉はそう考え、豊盛に光明寺を城塞化するよう命じた。 【徳川の時代】対京都鎮圧対策 家康の指示で、知恩院を光明寺と同じく城構えに大改造し、京に異変が起こった際、光明寺とともに鎮圧の砦とした。
京都市指定文化財:永運院文書(えいうんいんもんじょ)179点
本文書は,金戒光明寺の子院,永運院本堂の襖絵4面の下張りに使用されていたものである。平成11年の襖絵修理の際に発見され,同16年に永運院から本市に寄贈された。 その内容は豊臣秀吉,徳川家康に仕えた宮城豊盛(1554~1620)に関わるもので占められ,天正10年(1582)から文禄5年(1596)の年記が集中して見られる。 内訳は書状が113点,検地・年貢関係28点,軍事関係26点,その他12点である。 書状は主に秀吉の近習に関するもので,差出人には,片桐且元・黒田長政・小西行長などの名がみられる。 書状以外では,豊盛が豊後の国で行った検地関係のものや,島津攻めに用いられた兵糧に関するものが目立っている。 量が豊富であり,当時の小大名の生活や,これまでほとんど知られることのなかった豊臣政権下の小大名の交流を知る上で貴重な資料である。
金戒光明寺
金戒光明寺~三門から御影堂へ - OpenMatome
京都府指定文化財 三門の撮影場所です 最寄りのバス停は京都市バスの「岡崎道」です。
『 舞妓さん撮影会~写真をオープンデータ化』の撮影会場としても利用させていただいています
京都で舞妓さん撮影会 - オープンまとめ(OpenMatome)
『 舞妓さん撮影会~写真をオープンデータ化』の撮影会場としても利用させていただいています。
写真は永運院本堂前

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